福岡高等裁判所 昭和53年(う)273号 判決 1978年10月09日
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人塙秀二提出の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。これに対する当裁判所の判断は、つぎのとおりである。
控訴趣意第一点(訴訟手続の法令違反の主張)について。
所論は要するに、原審は本件を簡易公判手続で審理しているが、右手続の要件である被告人の有罪である旨の陳述とは、訴因に記載された事実を全部認めるというだけでは足らず、それ以上に違法阻却又は責任阻却の事由となる事実の不存在をも認めることが必要であるところ、本件において弁護人は原審第二回公判期日において被告人の心神喪失を主張し、被告人の有罪を争っているに拘らず、原審はそのまま右審理手続を進めているから、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。
そこで検討するに、刑訴法二九一条の二に規定する簡易公判手続の要件である有罪の陳述とは、訴因事実を認めかつ刑事責任を肯定する旨の陳述をいうから違法阻却事由、又は責任阻却事由の主張のないことをも必要とするものと解されることは所論のとおりである。そして原審記録によれば、原審第一回公判期日において被告人は「起訴状記載の公訴事実はその通り間違いありません、本件で処罰されても仕方ありません」と、弁護人は「被告人の述べたとおりです」と陳述しているのであるから原審が簡易公判手続によって審判する旨決定したのは相当であるが、弁護人は同第二回公判期日において被告人の精神状態と知能状態についての精神鑑定を求め、第四回公判期日においては心神喪失の主張をしているのであるから、原審としては遅くとも右期日においては刑訴法二九一条の三により簡易公判手続によることが相当でないとしてこれを取消すべきであったと認められる。しかしながら原審は弁護人請求にかかる前記鑑定の申立を採用して医師鈴木高秋による鑑定を行っているほか職権による被告人質問等により被告人の精神障害の有無について十分証拠調をなしていることが認められ、また被告人及び原審弁護人において既になされた簡易公判手続による証拠調の方法及び結果それ自体についてはなんら異議のなかったことが窺われるから、右訴訟手続の法令違反は判決に影響を及ぼすことが明らかであるとはいえない。論旨は採用できない。
控訴趣意第二点(事実誤認等の主張)について。
所論は要するに、原審は簡易鑑定書その他若干の証拠により被告人の心神耗弱を認定しているが、本件簡易鑑定によっても被告人の責任能力については甚だしい障害があったものと診断されており、右障害の程度であれば心神喪失を認めることも可能であるから、正式鑑定によるべきであったのにこれをなさなかった原審の認定には理由不備ないし事実の誤認があって判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
そこで判断するに、心神喪失とは、精神の障害により事物の理非善悪を弁別する能力又はその弁別に従って行動する能力のない状態をいい、心神耗弱とは、かかる能力を欠如する程度には達しないが、その能力の著しく減退したものをいうものと解すべきである(昭和六年一二月三日大審院判決刑集一〇巻六八二頁参照)。そして原判決挙示の証拠中、上森幹生の司法巡査に対する供述調書によって認められる被告人の本件犯行の具体的状況及び逮捕時の状況、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書によって認められる被告人の供述する本件犯行の動機、態様、逮捕時の状況、被告人の原審及び当審における各供述内容、態度のほか原審鑑定人鈴木高秋作成の精神鑑定書の記載内容等を総合して判断すれば、被告人の本件犯行当時における精神障害の程度は、原判示のように事物の理非善悪を弁別する能力又はその弁別に従って行動する能力が相当に減退した状態であったに留まり、それ以上にこれを欠如する程度の状態にはなかったものと認めるのが相当である。また原審の採用した鑑定の方法は、本件事案の性質、程度、前記各証拠の内容等に照らし相当であり、所論のように更に専門的鑑定をなすべきであったともいうことはできない。その他記録を精査しても原判決には所論のような事実誤認等の瑕疵は見出すことができないから、論旨は採用できない。
控訴趣意第三点(量刑不当の主張)について。
所論は、被告人に対する原判決の量刑が不当に重いというので、記録を精査し、かつ当審の事実取調の結果をも検討し、これらに現われた本件犯行の罪質、態様、動機、結果、被告人の年令、性格、経歴及び環境、犯罪後における被告人の態度、本件犯行の社会的影響など量刑の資料となるべき諸般の情状を総合考察すると、本件は被告人がいわゆるマーケットの食料品売場において、価格一万円余相当の真鯛及びうなぎ等の食料品等を窃取したという事案であるが、被告人はいずれも窃盗罪により、昭和四七年一二月一四日懲役一年、三年間執行猶予の、昭和五一年三月四日懲役一〇月、三年間保護観察付執行猶予の各判決を受けながら、更に本件犯行に及んでいるものであることからすれば、その刑事責任は軽視することができないのであって、所論が指摘するように本件被害品が還付されて実害がなく、被告人は知能が低く母と二人の生活保護世帯であることなどの被告人に有利な情状を十分斟酌考量しても、原判決程度の量刑はやむをえないものと認められ、これをもって不当に重いとは考えられないから、この論旨も採用することができない。
よって、刑事訴訟法三九六条により、本件控訴を棄却し、当審の訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但し書に従い、これを被告人に負担させないこととして、主文のように判決する。
(裁判長裁判官 安仁屋賢精 裁判官 杉島廣利 川本隆)